ニリンソウ 1~8編(全25編)


その1「虫の知らせ」
その年のその日はまだ4月の終盤に入ったばかりというのに
もう温度計の針は摂氏25度に迫る勢いで
早くも夏日の到来を思わせる日であった。
宝来玄黒はその日の朝 蒸し暑さから寝床の中で
普段よりもなぜか早くから目が覚めていた。
そこへ早朝から突然電話音がけたたましく鳴り響いた。
寝巻き姿のまま受話器を取ると
高校時代からの友人である藤岡龍之介の
娘・妃梨花からであった。
その藤岡は、40代半ばで「小細胞肺癌」の病に侵され
手術で一旦は回復した様に思えたがその後再発を繰り返し
入退院の度毎に薬物治療や放射線治療等々を行なって来たが
遂に身体全体にまで転移するに至り
まだ50を少し越えた歳で遂に命尽き
2週間ほど前に葬式を済ませたばかりであった。
「こんな早くに何?、、」と玄黒は
訝しく受話器を強く握り締めた。
「母が昨夜脳出血を起こして倒れ今朝緊急病院で亡くなりました!、、」
「えっ!ー」唖然として言葉も出ず玄黒は心臓の鼓動が聞こえてくるような
面持ちで、「兎も角午前中にはお宅に伺います!」と答え
電話を切り慌てて服を着替え
妻の田鶴に事の次第を伝えて
出かける準備をしたのだった。
今朝寝苦しく目覚めたのは「虫の知らせだったのか?」との思いが
玄黒の頭をよぎった。
玄黒は妻の田鶴と共に藤岡のマンションに向かう途中
藤岡の研究のことそれを支えた藤岡の妻のこと
北海道でその妻の満と出逢ったいきさつや
一緒に高校時代に関東の山々をあちこち
山野草の観察に何度も出かけた時のこと等
様々が錯綜して思い起こされた。
藤岡の身に突然襲った病が元で
自身の果たそうとしていた研究も
その時点で断念せざるを得ないと思った藤岡は
一時絶望的な心境に陥ったが、
亡くなるまで体調と相談しながら
これまでと同様
少しでも自分の研究を前に進める努力をし続けて来れたのも
ひとえに藤岡の愛妻・満の懸命な支えが
変わることなくあったからこそだった。
6~7年ほど続いた闘病生活がとうとう終焉し
葬儀が行われたあの日 飾られた花祭壇の下で
かつての大きな体躯が見る影もないほど痩せて小さくなり
花に埋もれた藤岡が横たわる棺の横で
並べられた椅子に家族や親戚達と共に座り
弔問客が訪れる度に
黙って頭を下げて挨拶する
喪の衣に包まれた痩身の藤岡の妻・満の憔悴した姿を思い返していた。
その2「絆」
かつて藤岡龍之介が高校時代まで両親と共に暮らしていた家は
文京区の原町 という場所にある戸建ての一軒家であった。
その場所は今では
戦後の道路整備計画に基づいて白山通りの拡幅事業のために
土地が買収され跡形もなく消え失せている。
その後白山通り沿いには中高層のマンションが次々と建てられたのだ。
藤岡が闘病生活のために晩年暮らしていた当時の住まいは
地下鉄白山駅から徒歩1〜2分の高台にある
煉瓦作りの重厚な外観の大きなマンションの12階にあった。
近くには昔ながらの商店街もあるが六義園からも近く
都心にしては閑静な落ち着いた街並みであった。
このマンションは元は藤岡の両親が暮らしていたマンションであった。
藤岡夫妻の一人娘・妃梨花が親元の北海道を離れて
将来薬学部に進みたいと希望して
親が地元の大学を勧めるのに抗して
東京大学を受験し合格したのが契機となって結局
藤岡夫妻が東京に住まいを移す事になったのであった。
藤岡の娘は合格後一人住まいしたいと願って
東京の下宿先を色々探しているのを見て
藤岡夫妻は心穏やかでなく
東京に住む藤岡の両親の元から大学に通わせてもらうという
考えが浮かんだものの逡巡していた。
そこに、幼い頃から何かにつけて可愛がって来た
孫娘・妃梨花から直接電話が掛かり
「年老いて身体に支障が出始めて自分達の事だけでも大変なのに
おじいちゃんおばあちゃんに自分まで面倒見てもらうのは
負担が大き過ぎる!、」という
健気な気配りの言葉を聞いた藤岡の両親が
不慣れな東京での娘の一人暮らしは心配だと考え
一部屋を孫娘の為に提供してくれていたのであった。
藤岡の病気が最初に発覚した時も
心配した両親が東京に藤岡を呼びよせ
藤岡の父親の親友が東京の大学病院で
癌治療を専門とする腫瘍外科医であったことから
初めての手術をその病院で受けさせたのだった。
その後も再発を繰り返す度に
北海道から東京に来て両親の家で暫く過ごした後
北海道の自分の家に戻るという二重生活を続けていたが
いつしかその病院へ通うのに便利なこのマンションで
藤岡も結局一緒に暮らすことになってしまっていた。
その3「父親の存在」
藤岡の両親は一人息子の藤岡が結婚をした頃から
自分達がまだ健康で体力、気力が充実している間に
二人が生まれ育った気候温暖な浜松の三ヶ日に移り
のんびりと余生を過ごしたいと考えていたが
息子の病気が時間の経過とともに深刻になっていくのが分かり
藤岡家族3人が揃って皆一緒に暮らしたほうが良いと考え
北海道で一人暮らす藤岡の妻を呼び寄せ
マンションを息子夫婦に譲り
藤岡が亡くなる3〜4年前から
自分達は故郷の浜松で隠居生活に入っていたのであった。
藤岡の父親は大蔵省(現財務省)に務める官僚で
ほぼ一年毎日深夜の帰宅が続くという生活ぶりで
予算編成の時期になれば
泊まり込みで朝方帰宅したり国会会期中には
休日でも出勤するという「働き虫」であったので
藤岡は幼い頃父親と遊んだという体験がほぼ無かった。
しかしながら、たまに取れた休日の午後に、
その父親は学生時代から映画好きで
撮影所でアルバイトしていたこともあったようで
日本映画の「時代物」を鑑賞するのが特に好きであったらしく
藤岡を誘う「そろそろかっちゃん(活動写真<映画>のことを
彼の父親はそう呼んでいたらしい)に行くか?」の
毎度の父親の決まり文句と共に
近くの映画館に連れて行ってもらう時だけは
父親と歩くことが楽しく嬉しかったと玄黒に語っていたことがある。
玄黒は藤岡の父親に直接会って話したことは無かったが
藤岡の葬式の時に始めて会った容姿からその年頃の男性としては
非常に背の高い人物だと思った。
その時藤岡の身長の高さと骨格は父親譲りなのだと悟った。
その4「天性の才能の開花、、」
そもそも玄黒と藤岡龍之介との出会いは高校に入学してからであり
藤岡が山野草の中でも特に「ニリンソウ」に惚れて
ついには「ニリンソウの生育地として日本でも有数の宝庫である
北海道で暮らすことになり
野草の研究者としての道を歩むようになった事は
高校2年次の春に玄黒が藤岡を野草観察に誘ったことが
きっかけだったとずーと長い間思い込んで来た。
しかし北海道で妻となる満と出逢い
互いに惹かれ合い結婚するに至った経緯は
藤岡の天性の優れた資質が起因して
「神の御意志!」により必然的に結ばれる運命だったと
今では思えるようになっている。
藤岡は190cm近くある大男で体躯もがっしりし
小学低学年の時に初めて剣道場に通って以来
剣道をずっと続けて来ていたので
高校1年の時には三段の資格も取得していて
インターハイにも出場するような腕前であった。
玄黒とは高校でたまたまクラスの席が近くになったせいで
話を交わす間柄になったが、初めて藤岡と顔を合わせた時
その大きな体と太い声、大きな手そして太い眉毛と
若干皺を寄せた眉間
人を射抜くような大きな眼、
どちらかというと角張った顔立ち
色白ではあるが、伸ばしたらきっと濃い顎髭になるだろうと
思わせるその精悍な顔立ちと容姿を見た時
もとより臆病で子供の頃より病弱に育った気弱な玄黒は
腕力のある喧嘩の強い怖そうな男に思えて
遠慮がちに会話をしたのであった。
しかし月日が過ぎて次第に気心を知り
時々冗談を言って笑うと体に似合わずその顔が可愛いと
思えて来たのである。
藤岡は変わらず剣道の稽古に夢中であった。
玄黒は「野草観察同好会」という部活として公式に学校から
まだ認められて無い集まりがあることを知ってそこに所属していたが
人数は1年生から3年生まで合わせても男子4名女子2名の
同好会であったのでもう少し人数を増やしたいというのが
皆の願いでもあった。
2年次になって前の3年生の男子2名が卒業し人数が減ったので
「同好の士」を増やすために
関東地方で春になれば多くの種類の野草が見られる
「高尾山」を訪れる企画を立てて
新入生が入学して間もない連休前の4月の休日を
利用して募集することにしたのだ。
玄黒は以前に藤岡から中学時代 友人数人と「秩父の武甲山」
に登ったことがあるという話を聞いていたので、
山は登って景観を楽しむだけが目的ではなくて
高尾山という山は関東でも稀な山野草の種類が多く
群生する光景は感動するという話を熱心に語り口説いたのであった。
彼は夏場の剣道・インターハイ前なら行けるというので
企画に参加することになった訳である。
当日はやや薄曇りであったが天気予報では
高尾方面の降雨の心配もなく無事企画が遂行された。
同好会の皆が熱心に吹聴したこともあり1年生が3人2〜3年生が3人
新たに加わり男女5名づつの合わせて10名の人数になった。
高尾山では山道脇や沢沿いに「キンラン」や「ギンラン」
「二人静か」や「シュンラン」「ナルコユリ」他
「エイザンスミレ」などすみれの仲間達もたくさん見られ
皆熱心に接近してその容姿を記憶に留めたり写生したりしたが
中には当時普及し始めた35ミリカメラを使って撮影する者もいた。
上級生の知識豊富な同好会の連中が
危険な野草や野草にまつわるエピソードとその特徴は無論
昼食時には野草料理のことなども色々
初めて参加した連中達に聞かせる度に
「へえーそうなんだ!」と関心を示したり珍しがって聞いてくれるので
同好会の連中は「企画成功!」とほくそ笑み
楽しく充実した日を過ごせたのであった。
然るに藤岡といえば草戸山付近の沢沿いに
真っ白く敷き詰めた絨毯のように美しく群生する「ニリンソウ」の姿を
初めて見てその一つ一つの可憐な花姿にすっかり魅せられたようであった。
その事が分かったのは、連休が明けた頃に
「宝来!あのニリンソウの群生は本当に素晴らしかった!
俺もあの時教えてもらった色々な野草達のことを
本で調べているうちに興味が段々湧いて来たので
次の野草観察同好会の催しに又是非参加をしたいのでよろしく!、、
どうやら剣道と掛け持ちでも出来そうだから、、」と
無骨の顔に似合わない程 愛くるしい笑顔で
頼んで来たのだ。
玄黒は既に藤岡の天性の気質をこの一年の付き合いから
飲み込めて来ていた。彼は大胆に見えて繊細で慎重
人を「国籍や身分、男女の別、地位、貧富如何」で判断を
しないという信念を持っていて
それは玄黒の心情に合致するものであり玄黒が好感と信頼を
抱いた絶対的な証であった。
その5「ニリンソウの咲く北へ、、、」
それからは藤岡の剣道の大会と重ならない休日には
関東近県の山野草が観察出来る色々な場所に
「野草観察同好会」の連中達とだけでなく
別の時でも時間を見て二人だけで
訪ねる事も度々あった。
藤岡はすっかり野草の虜になり益々興味が湧いて来たと見えて
ちょっとした時間があると学校のグランドや近隣で見つけた
野草達を採取したり図書館を利用して調べたり
次々購入した山野草関連の本を持ち寄り
玄黒と共に色々検討して
短期間で知識をみるみるうちに増やしていった。
ただ玄黒はその頃本当に藤岡にとって
これで良かったのだろうかという思いが脳裏に沈んでいた。
子供の頃から稽古し続けて来た剣道で
「全日本剣道選手権大会での優勝」を夢見ていたし、
さらにその先のことまで見つめていたかも知れない
藤岡の想いとは裏腹に
野草に興味を持たせてしまった頃から
剣道の練習時間がどうしても減り
大会で負けが多くなったような気がしていて
「罪なことを自分はしたのでは?」と
常に頭から離れなかったからである。
ただ藤岡からただの一度も「負けの言い訳」を
聞いたことが無かったので玄黒からその話を
なかなか切り出せなかったのである。
それどころか藤岡の野草や植物に関する知識の習得の速さは
尋常でなく玄黒も目を見張るほどで天性の素質を
開花したと思われる事が何度もあったので、
成り行き任せになったのであった。
「玄黒!俺来年の受験 北大の理類に決めた!
お前も一緒に受験しない?」
突然の藤岡の提案に玄黒はびっくりした!
「北海道は俺の惚れたニリンソウがあちこちで群生しているし
北海道の利尻島や礼文島には本州ではなかなか見れない野草の固有種が
いっぱいあるらしい!是非行ってみたいんだ!
お前と一緒なら張り合いがあるから!」
「北海道?、、、」玄黒は咄嗟に雪深い日高の山々の光景が浮かんで来て
蕎麦の美味しい産地として知られる幌加内町の朱鞠内湖畔では
冬はマイナス40℃を超える寒さになると
何かの本で読んだ記憶があったので
厳しい冬の寒さを想像しただけでゾーとしたのだった。
「俺は冬の寒さが嫌いだから遠慮しとく!、、、」「そうか!!、、、」
話はこれで終わってしまった!
藤岡は子供の頃から鍛えて来た剣道の世界に後ろ髪引かれながらも
一生を研究者の道を歩むことに決めて、翌年春の受験に成功して
北海道にわたり玄黒とは離れ離れになったのであった。
玄黒は離れ離れになる前年の3年次の夏休みに入る前に
一度だけ藤岡の家を訪ねた事があった。
藤岡が「宝来に是非見せたいものがあるから
うちに来て欲しい!、、」と言われたからであった。
その6「懐かしき昭和の風景、、、」
藤岡龍之介の家に行く最寄駅は都電の「指ヶ谷町駅」だと
藤岡から教えてもらっていた。
その頃の白山通りは港区の三田と
曙町(東洋大学前)を結ぶ都電が走っていた。
藤岡が「手書き」で書いてくれた地図を頼りに玄黒は
都電の「指ヶ谷町駅」で降車した。
指ヶ谷町から北西に伸びる通称地元で「都電通り」呼ばれる道の
両側に並ぶ商店街を通り抜けると
京華商業高校のグランドに続く鉄門扉の裏門にぶつかる。
グランドを囲む壁に沿って右側に鍵の手に回り込むように
かなりの傾斜道が続くが高校の正面玄関の前を
過ぎる頃には道は平坦になる。
高校の前には道を挟んで向かい側は広い空き地が広がって
ぺんぺん草やハコベなどが地面いっぱいに蔓延ったり
ハルジオンやメヒシバなどが花をつけていた。
空き地の中程では踏み固まれた赤土の地面が
剥き出しに見える場所で
子供達が甲高く叫びながら10人ほどで草野球をしていた。
さらに道なりに歩を進めていくと ところどころに
立派な門構えの家が立ち並んでいたが中でも
右手に大層大きな屋敷があって広々した正面玄関前は
真っ白な玉砂利が敷き詰められ
中央に幅の広い真っ白な大理石の敷石が門まで続き
途中に高さ1m程のやはり大理石の台に鎮座した
一対の「阿吽の狛犬」の石像が両側に設置され
まるで道行く人を監視するように睨みつけていた。
それはこの家に不用意に入ろうとする者を
断固拒むような凄みと威厳があった。
その日は誰か来訪者が予定されていたようで
たまたま重厚な門の閂(かんぬき)がはずされ開け放たれ
白い敷石が数十メートルほど先にある
その屋敷の母家まで真っ直ぐ伸びていた。
平屋の大きな屋敷の後ろには
森のように茂った緑の高い木立が覆い被さり
その後ろの高台の上には東洋大学の校舎が見えた。
玄黒はきっと何某かの由緒ある屋敷に違いないと思ったのであった。
この辺りは江戸時代には武家屋敷が並んでいたと
後で藤岡の母親から教えてもらって成程と納得した。、、、
その屋敷を右に見ながら藤岡の地図通りに数10メートル進むと
左側に黒塀の屋敷があってその角を左に曲がると道幅5〜6m位の
緩やかな坂になり5〜60メートル先の突き当たりには民家があり
行き止まりになっていた。
その砂利道の中程右側に
坂の傾斜に合わせて盛り土された一画があり壁面は
大谷石が規則正しく積み重ねられてその上に
笠木と呼ばれる飾りのついた檜塀でぐるりと囲まれた家があり
そこが藤岡の実家であった。
道から三段ほどの大谷石の階段を登ると
両脇が太い丸太の檜柱で挟まれた一間ほどの「檜の引き戸門」があって
「藤岡」と書かれた「表札」が柱に飾られていた。
左横のLの字になった檜塀には大人が
わずかに屈んで通れるほどの「開き戸」があった。
ベルが無いので大声をあげて「こんにちわ!」と玄黒が叫ぶと
中の奥の方からガラス戸が開く音がして下駄の足音が近いて来て
藤岡が引き戸を開けて「よー宝来!待っていました!
中に入って!、、」と玄黒を導き入れたのである。
その7「ネクタリン・スモモ」
引き戸を跨ぐと規則正しく割と大きな四角い御影石の敷石が
歩幅に合わせるように間隔をあけて6~7個ほど並び
母屋に繋がる覆い重ね合った屋根の下の一坪ほどの
「コンクリートの叩き」のところまで敷き詰められていた。
家の正面玄関を仕切る
「両面格子ガラスの引き戸」は半ば開かれたまま
その玄関の叩きの上に藤岡の母親が立っていて
「いらっしゃい!宝来さん!」と笑顔で玄黒を迎え入れてくれた。
藤岡の母親は、身長は女性としてはやや高い方であった。
夏用の浅葱色の和服姿がよく似合う
色白で肌艶の血色がとても良い豊満な体付きで
見るからに健康そうな容姿で大きな目をして
若い頃はきっと美人であったのだろうと思わせる顔立ちであった。
実際話をしてみると何とも包容力がある物腰や話し方が
「おふくろ!」という言葉がぴたりと嵌る様な
一緒に居て、何とも心落ちく安心感の湧いてくる女性であった。
藤岡は身体付きは父親譲りであるが
気質やものの考え方は
母親譲りでかなり影響を強く受けたものと
この日玄黒は藤岡の母親に初めて会って確信したのであった。
来た道沿いのこの辺りの様子について
母親と玄黒が交わす会話が暫く続いて終わりそうもないので
遮るように玄黒を促して早速庭を案内し始めたのであった。
どうやら見せたいと言っていたものがそこにあるらしかった。
藤岡の家の庭は、御影石の敷石を挟んで門から見て左側の
西の隣家との境には塀は無く、半日陰になっていて
「南天」や「マンリョウ」などが植えられ
地際には「オモト」などが繁茂していた。
それでも「玄関の叩き」近くは
十分朝陽が当たるようで、「ネクタリン」という
李(スモモ)の一種の大きな樹が育っていて
その下に木陰を作っていたが
もう収穫しても良いくらい手のひらサイズ大の実が
真っ赤になってたくさんぶら下がっていた。
後で、藤岡の母親がお茶と一緒にその実を半分に切って
中心部の種を除き薄皮付きのまま出してくれたが
玄黒はその時初めて食べたあの少し硬くて甘酢っぱい
果汁溢れる美味な食感を藤岡の母親の顔と共に
今だに忘れず時々思い出すのである。
その8「小さな野草園」
藤岡の家の庭は門から見て右側がメイン庭になっていた。
母屋の正面玄関に導く様に並ぶ敷石の御影石を挟んで
右側は低いマサキの生垣になっていてマサキの
終わるところに低い木戸があって、
そこからメイン庭に入れる様になっていた。
藤岡の話によると藤岡が4〜5歳頃にこの60坪ほどの
土地を購入して建坪は25坪くらいの小住宅であるが
父親が建築設計士と色々検討して新築したそうで
家の外壁は今では京都の町屋でしか見れないような
「押縁下見板張り(おしぶちしたみいたばり)」という
伝統的な木造の日本家屋の外壁仕上げ様式で建てられていた。
玄黒は地味な感じに見える藤岡の家の佇まいを見ていかにも
派手さを好まない実直な公務員が建てた家という感じだが
妙に心落ち着け心地良いので
まだ会った事が無い藤岡の父親の生き方を勝手に想像して
好印象を持ったのであった。
メイン庭では、
東側の檜塀際には3〜4mほどの高さにまで成長している
大きな杉の木が2本茂っていて
塀の外の細い道を隔てた向こう側の
2階建ての家からの目隠しとなっていた。
坂道側の南の塀際には東南の角に「椿」や「柘植」の様な常緑樹
真南には「百日紅」や「梅」などの落葉樹が程よい間隔で植栽され
手前には背の低い黒松が1本大きな庭石の向こうで
右手横に枝を伸ばす樹形になっていたが
「春の緑摘み」は既に済んでいた様で綺麗に手入れされていた。
庭の一番手前には数種類のツツジが弧を描くようにぐるりと
何本か植えられていて縁石が仕切りとして使われ
奥の落葉樹などの樹木達のそばまで近づけるように
小道が作られていた。
ただ母屋に近い3坪ほどのところだけは
平坦な土が剥き出しになって
「たんぽぽ」や「ジシバリ」「オオバコ」などが
ところどころに生えていた。
藤岡が案内したかったのは、その落葉樹の下あたり一面の
夏場は明るい日陰になるやや湿った感じのする場所であった。
何とそこには「二人静か」がたくさん元気に花をつけ
「山百合」が咲き「八重咲ホタルブクロ」にはまだ花が見られ
「レンガショウマ」がすでに花芽を膨らませ始めていたのだ。
湿った小石の側にはユキノシタが育っていて
小さな葉をつけていた。
藤岡によると「ニリンソウ」も春にはたくさん
花をつけてくれたそうで
その場所では来年に向けて
すでに地上部は枯れてしまっていたが、
わずかに枯れた葉の痕跡が見てとれた。
どうやら埼玉方面の園芸店で様々な山野草を売っていることを知り
わざわざ出掛けてこれらの山野草を入手したとのことであった。
「藤岡の小さな野草園!」
これが藤岡が玄黒にその日見せたかったものだったのだ!

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


PAGE TOP