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縁・えにし 1〜5編



わくらば(邂逅)漫歩 (メタティックフィクション・随筆)
”縁(えにし)”
その1;勿忘草(全13編)
「この頃、玄黒さん!又独り言が多くなったわね!」妻・田鶴は
庭で咲き出した「勿忘草」の小さな青い花を窓越しに見つめながら
考え事をしていた宝来玄黒に向かって声を掛けた。
「そういえばかつてあなたのお母さんがよく私に言ってたわ!
『玄黒は、昔から何かいつもぶつぶつ独り言を言っていたけど、
変な子だよね!何でかねえー』、、て、、」
そう田鶴に言われて「ふーん!、、、」と答えた後
今更ながら成程その通りかも知れない
自分は確かにこれまで特別意識した事はなかったが、
テレビや新聞や本などを見たり読んだりしている時や
身の周りに起こる世の中の不条理や事象の異変に対して
勝手にその相手に向かって喋っていることがあるので、
その様子を生で見た他人の目からすれば
「変な怪しい人物!」と思われても
不思議ではなかろうとも思ったのであった。
ただ幸い相手は人間でも生き物でもないので
反発して逆襲して来る訳も無く
暴力沙汰にならずに安穏と生きて来れたに過ぎない。
もっとも腕力も気の強さも持たない玄黒は
もし相手が本気で向かってきたとしたら当然
とても太刀打ち出来るわけが無いので人間に対しては
争い事を極力避ける為に自分の覚えたわずかな知識である
刑法の「傷害罪」や「暴行罪」「脅迫罪」などの条文を披露し
理論武装して相手を翻弄させたり怯ませて
相手を落ち着かせ
大きなトラブルを避けるという
嫌味な人間の生き方をして来ただけなのだ。
ただ何故か動物や植物達に対する時だけは
子供の頃から敵対関係になることも
命の危険に晒されることもなかったので
腹が立つことなんぞ毛頭生まれて来るはずもなく
今日でもそれだけは変わらないのである。
詰まるところこの玄黒の人との争い事を望まない性格が
ぶつぶつ独り言を繰り返し自分に言い聞かせることで
不満の解消と昇華に功を奏して来たのだろう。
知識を増やすことには何らの抵抗も無い玄黒でも
本人の独自な考え方は無視され教科書通りの
一つの正解だけを良しとして皆が同じ方向を向き
疑問も持たず授業を受け試験結果に一喜一憂する
高校までの学校生活は
この上なく窮屈極まりないものであった。
ただスポーツや美術・音楽だけは
明らかに本人の潜在的な能力以上のもので争う必要もなく
上手なものはそれなりに下手な物でも笑いで済ませる
学校生活の中で唯一開放的で特別競争意識を
持たずに受けられる授業で最も好ましい科目であった。
そんな臆病で小生意気な玄黒にも
中学高校時代からより親しく
付き合いをして来た友人がいて
数年以上前に彼の突然の死により
二人の仲を断たれることになった徳岡和臣と
二人の関係をより親密に結ぶ縁(えにし)を作ってくれたが
やはり不慮の事故により若くして命を落とした
中川光男のことを又思い返し
「勿忘草」が咲き始めた春の初めの庭の景色を眺めながら
「ぶつぶつと独り言」を喋っていた時に
妻の田鶴に声をかけられたのであった。
その2 ;ダルマストーブ(全13編)
玄黒が徳岡和臣と急速に親しくなったのは
徳岡が中学1年次の2学期の初めに
熊本から親の転勤に伴って
玄黒のクラスに転入して来てから
3ヶ月ほど過ぎた
厳寒の冬に起きた事件が発端であった。
当時東京でも冬になると学校では
部屋の暖房の為に「ダルマストーブ」という
コークスを燃料にする暖房器具が使われていた。
ある日そのストーブの側に
隅に小さな花柄のついたかなり使い古したような
掠れたピンク色の下敷きが落ちていた。
授業の開始のベルが鳴り教官が入ってきて
それを見つけると
「これは誰のものだ?」とクラス全員に問いかけた。
が誰も手を挙げないでいると
その教官は「じゃーこれはゴミだからこのストーブで
燃やしてしまうよ!」と言って
ダルマストーブの焚き口を開けて燃やすために
下敷きを半分に折ったのだ。
すると前の方に座っていた女の子が
急に泣き出した。
するとその様子を見ていた
一番前に座っていためっぽう喧嘩の強い
中川光男という男が立ち上がって
その教官の腹めがけて突進し
頭突きを喰らわしたのだ。
教官は突然の攻撃に避ける間も無く
転倒しのけぞって黒板に強く頭をぶつけて
血が溢れ出しもはや授業どころではなくなった。
日頃喧嘩をすると相手が降参するまで叩きのめすので
クラスでは恐れられて鼻つまみ者のように
扱われていた中川だっただけに
クラスの多くの連中がその暴力を非難し出した。
玄黒はこの中川とは小学校の頃からの旧知で
しなやかな手先て゛美しくよく飛ぶ紙飛行機を折るので
いつも感心していた男で時々揉め事を起こしていたが
絶対理由無くこの男が暴力を振るうことはないと
知っていたので
「訳があるはずだ!、、」と言ったが、
興奮した教官と共に大勢が中川を罵った。
口下手の中川は自分の行動の理由を言わず
ただ俯いていた。
この時もう一人大人しい男と思っていた
転校生の徳岡が玄黒の訴えにただ一人賛同し
「宝来君の言う通り中川君の話を聞くべきだ!、、」
と主張したのだった。
この事件は結局教官も出血したとはいえ
多少コブができた程度で大怪我にはならず
中川の行動はどうやら自分が日頃好きだと思っていた女の子が
急に泣き出したことから壊された下敷きはこの女の子のものだと
悟り彼女が大事にしていた下敷きが無惨にも壊された故の攻撃と
明らかにされ、この事件は誰が落としたものか
深く確かめもせずに浅はかな行動を取った教官にも
非があると言うことで結局大問題にならず
中川の行動も不問とされた。
この事件以来玄黒と徳岡そして中川の間では
暗黙の親近感に近いものを互いに抱くようになり
中学を卒業するまで何かと声を掛け合う仲になっていったのである。
その3;本の虫(全13編)
「下敷き事件」があった翌年の夏に
徳岡和臣は玄黒の家がある私鉄沿線のN駅近くに
転居して来たことから、玄黒と徳岡はいっそう
通学の行き帰りに話を交わす間柄になった。
徳岡の親は都心のT大学病院の内科医として
勤務医として辞めていたが
診療所を開業して独立したのであった。
徳岡は色白の細面の優男で細い褐色の
やや四角い大きめの眼鏡をかけ
中学の時にすでに180cm近くの身長で
あったが玄黒と異なりスポーツとは
ほぼ縁が無さそうな
筋肉がまるで発達していない体付きで
指先は女性の手のように白く
ほっそりスーと伸びた長い手をしていた。
髪はきちんと七三に分けて常に櫛で梳かし
ひと目見ただけでも神経質そうな顔付きで
いかにも子供の頃から
金銭的に何も苦労したことが無い
良家の子息という感じであった。
ただいつも古典文学などの本を何冊も
鞄に忍ばせて時間があれば読書を重ねる
いわゆる「本の虫」であった。
これは高校に通うようになってから
玄黒も知ったことだが徳岡の父親の家系では
熊本出身の高名な小説家を輩出していることから
どうやらその遺伝子が
何がしかは受け継がれているのだろうと
玄黒は勝手に思っていた。
中学3年次になって中川は別クラスになったが
徳岡と玄黒は同じクラスになり互いに
高校進学のための実力試験の成績如何が
高校の進学先を決める重要要件となり
玄黒も自身の本意の外にあるとはいえ
受験競争の波に飲み込まれざるを得なかった。
徳岡は優等生で常に学年の1、2位を争う成績であったが、
ほぼ冗談も言わず鹿爪らしい顔付きを
いつもしているのでクラスメイト達からは
もっともらしい冗談で他人を
はぐらかすような真似をしたり
成績の細かい良し悪しをさほど気にしない
能天気な玄黒と異なり敬遠されていた。
どうやら徳岡の親・特に父親は将来医者となり
家を継いで欲しいと
徳岡に期待を寄せているようであった。
徳岡自身もこの期待にまだこの当時は
応えようとしていたのは確かであった。
彼と父親との間の確執は
玄黒と同じ都立高校に進み、
3年に進級した時点で大学進学に向けて
理科系と文科系のコース分けの段階で
「自分は医者に向いていないので
文科系のクラスに移る」と言って
実行した頃からどうやら始まったようである。
さらに溝が深まったのは
母親には知らせていたが父親には内緒にして
文系の試験をこっそり受験して合格した
国立T大で2年後期を前の進学振り分けで
勝手に文学部に進むことを
決めてしまったことであった。
医学部に進むものと思っていた父親は
激怒して「和臣の学費は今後一切出さない!
勝手にしろ!、、」と勘当同然の扱いにして
しまったのだ。
以後徳岡の心は希望に満ちた喜びの表情は無く
ただ苦悩する沈んだ硬い表情で包まれていた。
玄黒は、なぜそこまで親が子供の一生を
束縛しなければならないのかと
その不条理に憤慨したが、彼の落ち込む姿を
見ていると適切な激励を与えることも出来ずに
途方に暮れていた。
思えばこの頃から徳岡の性格や言動の裡には
隠蔽された翳りが巣食っていたのだと
今でも思えるのだ。
その4;バルサミコ酢(全13編)
玄黒は大学では自分の好きな野草や植物のことを学べる
道を歩んで来たが
徳岡はどうやらその年の冬が来る前に大学を中途退学して
何故かイタリアに留学すると突拍子もないことを
玄黒に告げてその後居場所も知らせぬまま
杳として行き方知れずになってしまった。
徳岡の母に尋ねても突然家を飛び出して行った
とのことで親にも詳細を告げず出奔してしまったのであった。
玄黒は実は母親は知っていたが徳岡との約束で
誰にも話さない儘にしているのだろうと思っていた。、、、
それから10年を優に超える日々が過ぎた秋のある日
小石川植物園に久しぶりに秋の野草を見るために
尋ねてみたくなった玄黒は、
池袋東口からバスに乗り換えて白山3丁目のバス停で降りて
千川通りを歩いているとあの中学時代の中川光男に偶然出会ったのだ。
彼は角刈り頭に白い厨房服に雪駄を履いて
下腹が少し突き出た腰に白い前掛けをかけるという装いで
もとより少し小太りであったが
相変わらずの丸顔で血色の良い元気の良さそうな顔付きで
「おおー!宝来君!」と笑顔で近寄ってきた。
いかにも板さんと言う出立ちであったので
尋ねると中学を卒業してから
すぐ都心にある和食の大店で
修行見習いの下積みから始めて板前修行を積んで来たそうだ。
(彼の天性の優れた味覚と器用な手先が幸いして
今は副料理長にまで出世していたのだった。)
が、まだ独り立ち出来る程の資金もなく
最近先輩がこの先の白山通りに店を出したので
頼まれて手伝いに来ているとのことであった。
どうやらあの時泣いた女の子(千代)と
今は一緒に暮らしているそうで
幸せそうな良い顔をしていた。
近くの喫茶店でお茶でも飲もうかと誘ったが、
今昼の休憩中でちょっと用事で外に出たが
この後夕方の仕込みがあるとのことで
立ち話になった。その時中川が言うには
2−3日前に自分の友人が勤めている
港区のイタリアレストランの前で徳岡に
ばったり会ったと言うのである。
その時玄黒の話をしたばかりで
今日またその本人に偶然に出逢ったので驚いたとも語った。
玄黒は長い間交流が途絶えていた三人であったが
今度も中川が玄黒と徳岡の間の縁を取り持ったことに
つくづく三人は縁(えにし)が深いのだと感じたのだ。
その後2−3日して徳岡とは連絡が取れ、中川と約束した通り
三人が再び互いの時間の調整がつく日に会えるようにもなり
三人の交流は以前にも増してより密になったのである。
連絡が取れて会えた徳岡の話によると
イタリアに渡ってから北イタリアの
モデナという人口十数万人の古い小さな街で
のんびり暮らしていたらしく、
あのイタリアを代表するスポーツカーのメーカー・
フェラーリの本部があるという都市だそうであるが
玄黒にとってイタリア・モデナといえばその地出身のオペラ歌手
ルティアーノ・パヴァロッティしか結びつけられなかった。
徳岡は中学の時からスポーツは苦手でも
スポーツカーには興味を持っていて高校の時も車の雑誌を
よく見ていたことを玄黒は今更ながら思い出していた。
そこで世話になったイタリア人夫妻が商っていたバルサミコ酢を知り
その味に感動して以来オリーブ油をはじめ様々なイタリアの食材を扱う
会社に勤めた後現地のイタリア人の共同経営者として日本法人を設立し
販路の拡大に目下励んでいるというのである。
中川が友人の勤めるイタリアレストランの前であったというのは
その店にイタリアの食材の売り込みに実は来ていたのだと
玄黒はその時初めて悟ったのである。
そして話を続け
モデナ滞在中にイタリア留学と旅行を希望していた
一人の女性(紬子)の為に現地の案内を
日伊協会という所で働く日本人から頼まれたことが縁で
知り合ったという彼女に一目惚れして
結局現地でその後まもなく結婚し
一緒に日本に戻り今は文京区にあるマンションで
暮らしているとのことであった。
玄黒はあの徳岡が営業をしている姿を
人との関わり合いが不得手な昔の姿と引き比べて
別人の様に変わった(、、とこの時は思っていた)要因が
環境の変化だけにとどまらず
きっとその紬子という女性が大きく貢献したものと憶測し
一体どんな女性なのだろうと関心を持たざるを得なかったが
彼女と初対面したのはもう少し先になってからだった。
その時「宝来にお土産!」と言って渡されたのがいかにも高級そうな
モデナ産の特性瓶入りの12年熟成という「バルサミコ酢」であった。
玄黒夫妻は徳岡に調理法などを尋ねながら
必要に応じて料理に合わせて適宜
その芳醇な香りを十分楽しみながら
最後の一滴が無くなるまで重宝して使ったのであった。
その5;山野草料理(全13編)
三人の交流はその後数年間は
突然の中川光男の不慮の事件が起こるまで
間を置きながら年に数回
時には三組の夫婦交えて会食しながら続けて来た。
会えば度々中学時代のあの事件と教官の話が持ち出され
大笑いしながら酒を酌み交わし和やかに過ごしたのだった。
玄黒夫妻はこの二人のおかげで如何に工夫すれば
食生活を楽しめるかということを
たっぷり学ばせてもらったのである。
特に天ぷら料理や揚げ物を得意とする中川からは
家庭で天ぷらを揚げる時に材料の切り方、
衣作りや揚げ方などちょとしたコツを覚えると
プロのような仕上げに出来る事や
和食の基本は五法と言って5つの基本の調理法
「切る」、「煮る」、「焼く」、「蒸す」、「揚げる」というものであり
食材の季節毎の本来の味や香りを絶対殺さないように
調理法を工夫するとか盛り付けをいかに美しく見せるかを考えて
盛り付ける器にまで心配りする必要があるとか
来客の嗜好に配慮し、もてなし方に心するのは無論
常に調理場や調理器具を整理整頓して清潔な環境を整え
大切に扱う事が如何に大事であるか等々様々あったが、
ほぼプロの技術を持ってこそ成せる業であり
又プロに要求される心がけとも思っていた。
そんな中で何よりも玄黒が惹かれ
ぜひ試して見たいと興味を持ったのは、
玄黒が山野草を育てていることを知った中川から
山野草は薬草利用に限らず食材や健康飲料として適材なので
山野草を食に採り入れることを盛んに奨められたことだった。
行者ニンニクやノビルは「お浸し」に
ユキノシタやコゴミは「天ぷら」がそして
ブタナ(たんぽぽもどき)やカラムシは「ソテー」が
最も美味であることなども
中川から学んだものだった。
そして徳岡からは、世界には知られざる様々な美味しい食材が
あることなどを数々教えてもらったのであった。例えば
イタリア・モデナ産の「パルミジャーの・レッジャーノ」が
「チーズの王様」と言われている事とか
イタリアを代表するキノコ「ポルチーニ茸」は
日本松茸と同じく人工栽培が難しく
「松茸」「トリュフ」「ポルチーニ」は「世界3大キノコ」と
呼ばれて珍重されているが日本に自生する「ヤマドリタケ」が
「ポルチーニ」である事も初めて知ったのである。
そんな交流が続いた間に時は流れ
三人とも互いに中年と言われても不思議でない
年齢にいつしか近づいていたのだった。
中川はその頃千代との間についに子供が出来たことを契機に
かねてより懸案してきた自分の店を
持つことを決心したようで手頃な物件を探し始めていたのだ。
その年の夏は高温小雨の年で
もう時期9月になろうというのに
まだ全国的にも40℃を超えるような都市が出るほどの猛暑が続き
玄黒の庭のバラ達も高温障害で葉をかなり落とす被害が出た。
朝夕回数を増やして庭の植物達にジョウロを使って
せっせと水遣り行っていた黄昏時に
玄黒の妻・田鶴の大声で呼ぶ声に反応すると
緊急の電話が徳岡から入っているということで
慌てて受話器を取ると中川が大変な事になったとの
知らせの電話であった。
