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”ギンリョウソウ(ユウレイダケ)” 1~7編(全12編)


その1(全12編)
台所の東に面する小窓に朝陽が強く差し込んでいる。
勝手口のある北側の道路に面する垣根沿いには
10年以上前に宝来玄黒が植栽した
棘を殆ど持たない大きな一季咲のつるバラがある。
この苗木を玄黒が購入した当時は
2mにも満たない程の高さしかなかったのである。
ある年の暮、近隣の園芸店で多くのバラ苗が
集められ売られている場所で隅の方に追いやられて置かれていた
その苗に目が留まったのだった。
(特価・長尺苗)『中輪・多花性・一季咲・棘無し・耐病性強い・
半日陰対応』という説明書きと共に
「ローズピンクの丸弁の花」の写真が
添付された名札が力無くぶらりと垂れ下がっていた。
じっくりとその苗木を見ると
このバラに対する
園芸店の一見ぞんざいな扱いに抗する様に
茎が太くがっしりしていて
葉こそ付いていないが枝ぶりが非常に元気で
竹の支柱に絡ませるように麻紐で結ばれ
巻き込まれていたのであった。
その苗木は展示されてからおそらくもう随分と時間が
経過していたのであろう。花の写真が淡く掠れているのを見て
玄黒はその日バラの苗を特に求めて買いに来たわけではなかったが、
家の勝手口から北口の道路に通じる細い通路にこれなら
アーチ状に仕上がるように植えつけられるかもと
ふと何故か考えが浮かんだのであった。
又名札のバラの名前が「春風」と書かれているのも
近頃気が塞ぎがちな自分自身を鼓舞するために大きく育てれば
新風がきっと吹いて来る気がして
大いに興味が湧いて通常の木立のバラ苗よりも
かなり高価ではあったが購入したのであった。
その2(全12編)
植栽してかれこれ10年以上その間玄黒は毎年冬期には、
その園芸店のバラ専門家が丁寧に教えてくれたことを参考に
枝の剪定と誘引を欠かさずに行い
又つるバラ専門の本を何冊も購入して自らも勉強し直し
寒肥なども十分施し
春先には他のバラ達同様必要な消毒を
次亜塩素酸系の人間に無害な消毒剤を
散布するだけにとどめ農薬は一切使わずに育てて来た。
彼の生真面目で若干神経質なばかりの几帳面さが功を奏したのか
このつるバラが強健であったのか定かでは無いが
兎にも角にも順調に今日まで育ち
今ではバラ達の花が咲く季節になると道路を通りかかる人の中で
このつるバラの写真を撮影していく人まで現れるようになった。
台所の屋根にまでツルが伸びるほど大きくなったこのつるバラが
5月の最盛期を迎えると多くの葉が繁り日陰を作ってくれる。
台所の北面のすりガラスのサッシ窓の向こうは玄黒の目論んだ通り
アーチ状になり通路に覆いかぶさり
台所のこちら側から見るとガラス越しに
ローズピンクの花々が枝先について開く様は
まるでバラの花を装飾したステンドグラスを
見るが如くである。
まだ春浅いにも関わらず
その日は東に面した台所の小窓に差し込む
強い陽射しで明らかに一日中上天気になることが
予測された。
庭の様子を見ようと
玄黒は勝手口のドアを開け放って
庭下駄をつっかけて
つるバラの幾重にも重なる枝の間の抜けるような青空を見上げると
ヒラヒラと揺れる物体の存在に気がついた。
それはアゲハ蝶であった。
「おや?バカに今年は早いじゃないかい!お前さん!」
そう言って、玄黒は訝しく思いつつも
何か心に刺さる予兆を見た気がした。
というのも20年を超えて親しく交友を続けて来た
玄黒より10歳以上若い友人・内園澄夫のことが
頭をよぎったからだ。
その3(全12編)
遡ること8ヶ月程前の夏のある日
内園澄夫がいつになくどこか精彩を
欠いた顔をして玄黒邸を訪れた。
彼は今森林インストラクターとして
活動しているのだが
収入は常に不安定である為、
10年ほど前からその資格を活かして
薄給を覚悟に週に2日ほど
補助教員として私学の進学高校で
生物学を教え又学生時代からの特技を活かして
全国大会を目指すその高校のクラブ活動の駅伝部で
指導教官も兼ねていた。
駅伝部で指導教官を兼ねていることには理由があった。
澄夫は私学の名門W大学の政治経済学部に入学したが
卒業後の進路として他の一般学生達が選ぶような
新聞社などのマスコミやジャーナリスト関連そして
銀行や有名企業などに就職する気持ちなど
いささかもなかった。
彼は自分の生まれた長野県内では高校時代
有数のマラソンランナーであったが果たして全国的に
どれほどのレベルなのか挑戦してみたくて
大学を選ぶにあたり
全国から名うての揃う箱根駅伝の常連校である大学に
進みたいとの一念だけは持っていた。
常日頃は人との競争意識を強く持たない彼は
要らぬ争いを避けるために
これまで何か対立することがあっても
他の人に大概譲って来ることが多かったが、
事マラソンに関してだけは挑戦する
意欲を持ち続けていた。
出来れば好きな植物のことが学べる
農学部のある大学で箱根駅伝の常連校であれば
さらに良かったのであるが自分が尊敬し指導を仰ぎたいと
思った名監督がいるのがその大学だったのだ。
子供の頃から関心度が高かった生物学は別として
理数系よりも文化系科目の学業成績が優れていたが
結果的に農学部を有しないその大学の入学試験科目が
得意科目に合致する事と、親の経済的負担を考慮すると
入試に失敗して浪人生活を送る訳にはいかないと
勝手に思っていたからであった。
結果澄夫はその難関大学の入試に難なく成功した。
そんな訳で大学在学中は名監督のもと
駅伝におけるチームの成績と個人記録を
伸ばすことだけの工夫と練習に励み
努力する毎日であったので
経済学などに関しては実のところほぼ興味がなく
近代経済学の古典経済学書「ガリアー二の貨幣論」などの問答を
他の学生達から投げかけられても珍紛漢紛であった。
その4(全12編)
大学を卒業するにあたり
4年間 駅伝一筋で過ごした大学生活の中で
マラソンをこのまま続けて国際レベルの選手になれる
ほどの才能は持ち合わせていないことを悟り
卒業しても趣味として走り続ける事だけなら
可能だとは考えていた。
実業団で駅伝を続けることを薦める先輩達もいたが
澄夫は人間関係が煩わしそうな会社勤めで
立身出世したいという意欲は毛頭もなく
幼い頃 山野を自分が好きな時に
季節に関わらず植物たちとの出逢いを求めて
駆けずり回ったあの時の懐かしい思い出が
またしても首をもたげて来た。
自分に向きそうもない会社勤めの道は捨てて
就職試験はどこも受けずに
ぶらぶらとバイト生活などをしていたが、
ある時風邪を拗らせたことが元で
肺の病に罹り
完全に回復するまで3年の療養生活を
余儀なくされてしまったのである。
もとより学ぶことだけは厭わない内園澄夫は
その後一念発起もう一度自身を見直し
好きな植物に関する資格を取り直したのだ。
それでもその資格で得られる収入は
なんとか糊口を凌げる程度で
贅沢な暮らしなど縁遠かった。
しかし好きなことで生活している満足感は大きく
現在の暮らしに何ら不満を持っていなかった。
旧い学生時代の友人の紹介で現在は高校で薄給とは言え
補助教員として生物学に関することを
生徒達に教えることも出来ているのだ。
今日も玄黒の家を訪れたのは
生物学の課外授業で生徒達と共に圃場で育てていた野菜・
空心菜や枝豆、オクラがたくさん収穫出来たので
生徒達に分配して余った分を持って来たからであった。
しばらく歓談を続けていると
「宝来さん!驚かないで聞いてくださいね!」と突然念を押して
喋り出したのは、自分は喉頭癌を患っていてすでにステージが
手術不可能な段階になっていると医者から宣告を受けていると
切り出したのだった。
その5(全12編)
思えば玄黒が初めて出会った時から澄夫は病的なほどの痩身
で「お酒ばかり飲んでいないでちゃんと食事をしているのかしら?」と
玄黒の妻・田鶴と常々独り身の澄夫が酒を飲めば
酒の肴などにはほぼ手をつけず酒ばかり飲んでしまう食生活を
下宿先で一人でいる時に繰り返してるのではないか
と心配してのことであった。
家族皆健康で平和に静かに暮らせれば十分という考えで
日常買い物するに必要な程度の金以外
余分な貯蓄など必要もなく
ましてや投資で金を増やすとか
金持ちになりたいなどの欲望を
持ち合わせていない玄黒夫妻には
彼に対し経済的な援助は何も出来ないにせよ
せめて時間がある時は手作りの料理を拵えて
もてなすということくらいがせいぜいであった。
一人娘を幼いときに不慮の事故で亡くしてからは
いっそうその傾向が強くなり
妻の田鶴などは澄夫を見ていて
新たに息子が出来たように語ることもあった。
いま不治の病魔に澄夫が襲われていると聞いて、
玄黒は、「ああー」と言ったきりなんと返事して良いか分からず、
しばらく沈黙し適切な言葉をかけられない儘、
澄夫を直視していると脆弱な体つきがいっそう小さく
影が薄く見えて来てまるでこのまま雲散霧消していくように
感じられたのだった、、、
「でもすぐに死ぬわけではないですから、、」澄夫の方から
再び語り始めて弱々しく笑顔を作ったが、玄黒は笑えなかった。
澄夫が帰った後、玄黒は今聞いた話を
買い物から戻った妻の田鶴に即刻話をしているうちに
急に涙が溢れ出して止まらなくなった。
「どうしてあんなに優しくて良い奴がこんな目に
遭わなくちゃならないんだろう!、、」溢れ出る涙と鼻水を
田鶴の差し出すティッシュで拭き取った。
あのアゲハ蝶を見た3日後、内園澄夫の生家である長野の実家で
両親の死後葡萄農家を継いでいる弟から澄夫が
「今朝5時35分亡くなりました」との電話を受けた。
その6(全12編)
玄黒はあの美しいアゲハ蝶は、死を前にして最後の挨拶に来た
内園澄夫だったに違いないと確信した。
蝶となって必死に羽ばたいてここまで友人を訪ね来るとは、
どこま律儀な男なのだろう!と玄黒は胸が塞った。
玄黒は、澄夫の事でずーっと後悔している
唯ひとつのことを今日も考え
澄夫との初対面の時のことを思い出していた。
当時の澄夫の顔は、血色も優れず若いのに
バカに髪の毛も薄く
早晩この先禿頭は必須と思われるほどで
少なくとも多くの若い女性が憧れる
美男とは縁遠い顔立ちであった。
こけた顎の下の喉仏が話をすると上下に動く様は
身長180cm近くの痩身の体付きと共に
なおさら病的な感じに見せて
地味で控えめな感じを与えた。
それでも顎髭もほぼなく
つるりとした顔の鼻筋は
スーと伸びて光り輝き人を真っ直ぐ見る眼は、
誰が見ても優しそうで理知的で
頭脳明晰な印象であった。
事実、澄夫は生まれ育った長野県で有数の
県立進学高校に進み幼い頃より実家の葡萄畑のある
野山を駆け巡っていた為か駆け足は抜きん出て優れ
県主催のマラソン大会ではトップ3に入るほどの健脚であった。
両親から勉強を強制されることもなく自ら進んで勉学に励み
特に野山で出会う山野草については、
小学生の頃から特別興味を持っていて
親に頼み込んで色々図鑑を買ってもらい
納得するまで調べたり書き写したりしていた。
玄黒が彼と初めて知り合った時も「Vixen」の
メタルホルダー・ルーペをポケットに忍ばせており、
玄黒の家のさまざまな雑草を探り
身を屈めてそれを取り出しては熱心に覗いていた。
そもそも玄黒が、内園澄夫と知り合ったのは、
澄夫の東京での下宿先のアパートの大家である浪野ヨシエ夫人が、
散歩の途中ですでに当時玄黒が相当数育てていたバラ達が
花盛りの季節に玄黒の家に立ち寄ったことに始まる。
ヨシエ夫人は50前後の丸顔の小太りの背の低い女性で
笑うと愛嬌のある顔立ちであったが
背を若干丸めた歩き方をするので年寄りは老けて見えた。
玄黒の庭先で花盛りのバラの話から色々話が飛んで
玄黒が山好きで山野草にも興味がある事を知って
自分が経営する親譲りのアパートの住人に
山野草に非常に詳しい青年がいるので
「話が合うと思いますので又近いうちに一緒に来ても良いですか?」
ということで翌日早速連れて来て紹介されたのが内園澄夫だった。
その7(全12編)
澄夫はヨシエ夫人が言っていた通り
バラ達よりも庭に植栽されているツツジの木の周辺で這うように
地面いっぱい広がって盛んに花をつけている「タチツボスミレ」や
よく見ないと気が付かないような極く小さな花をつける
「トキワハゼ」などの野草達に興味を示した。
山野草の諸々話からしまいには大学時代選手として1年時から
4年まで箱根駅伝で箱根路を駆け抜けたことまで
話が及んだのであった。
スポーツ好きの玄黒は澄夫の山野草の知識が深いだけではなく
箱根駅伝選手だった事が分かり
さらに澄夫への興味が湧いて二人の話が止まらなくなった。
二人の話が延々と続く気配を察してヨシエ夫人は途中で退座した。
玄黒は初対面で澄夫の性格の良さを見抜き
共通の趣味を持つことも重なりすっかり気に入ってしまったのだ。
それからは休日には機会ある毎に澄夫は
玄黒邸に訪ねて来るようになり
以来約20年を超える交誼を重ねて来た。
玄黒は自分より10歳以上若い内園澄夫との交際が深まるに連れ
物事や世間に対する考え方が何か自分と共通することを知り
次第に年の離れた弟のように愛おしい存在に変わっていった。
同時に会う度に彼の天才的な記憶力と観察力に
いつも舌を巻いても来たのだ。
山野草の知識についてこんなことがあった。
澄夫が幼い頃から関心を持ち
今日まで山野草を観察する度に描いてきた水彩画や、
鉛筆デッサンはプロの画家から見れば、
芸術的には物足りないものではあろうが
玄黒の眼から見るとまさしく自然の中で見つけた時のように
生き生きして実に素直に描いていると思っていた。
その何点かを澄夫が教える高校の生徒の誰かが見つけたようで
展示会を開いて欲しいとの要請が生徒達から上がり
校内で展示することになったのだ。
玄黒は「展示をするなら描いた山野草の作品に
生徒達に分かり易いように簡単な説明をつけたらどう?」と
薦めると「成る程そうですね!では私が一番好きな
(ギンリョウソウ)ならこんな説明でどうですか!」と言って
使い古した布製のショルダーバッグから取り出した
スケッチ帳に即刻書き始めた。
玄黒はその達筆な字にも感心したが何より驚かされたのは
「ギンリョウソウ;被子植物 双子葉類 別名:ユウレイダケ
ギンリョウソウ(銀竜草)は、日本全土に分布し
薄暗い湿り気のある場所に自生し
全く葉緑素を持たずに木陰で白色あるいは茶色でひっそりと咲く植物、
葉緑素を持たないので光合成は行わずに
他の生物に寄生することで養分を獲得する。
例えば樹木の根に共生する「菌根菌」にさらに寄生(三者共生)することで、
樹木の光合成の養分を間接的に吸収して生活する、、、」と
まるで山野草図鑑などに描かれているような文章を
苦もなくスラスラと書き記した。
おそらくこの野草と初めて出会った時 本などで調べた説明と観察結果が
頭の中にしっかり叩き込まれていたのであろう!
彼の天才的記憶ぶりに驚愕したのである。
