
「けやきにミンミンゼミ」

前編(全2編)
今日も又暑い日になると思って夏季休暇中の玄黒が庭先に出ると
どこからともなく 「ミンミンぜみ」の鳴く声が
聞こえてきた。
「ミーン!ミン!ミン!ミュー!」「ミーン!ミン!ミン!ミュー!」
玄黒の耳にこのように聴こえてくるこの蝉の鳴き声のリズムは
平和で穏やかなひと時を実感出来て
なんとも心地よく その鳴き声を聴くと
子供の頃は真似てよく口ずさんだものだった。
現在地方公務員の宝来玄黒は、両親の遺伝子を受けて
幸い髪も豊富で艶良く肌色と血色も良い上に童顔も重なって
他人からはいつも実年齢よりも若く見られている。
しかし実年齢は決して嘘をつかず年々体力精力ともに
衰えて来ていることを痛感し
もう時期定年を迎える所謂初老になっていると自覚しているので
今更庭の向こうの道を行き交う人目を気にせず
蝉の鳴き声を真似て大声を出すのは流石に憚れる。
従って今日は黙って聞き流すことにしたのだが
聴いているうちに
またぞろ学生時代の出来事を想い出して心が痛むのである。
その日は玄黒の通う都立高校ではなく
都心の大学受験予備校が主催する御茶ノ水校舎で
大学受験の模擬試験を受けた後
自宅に帰る午後の晴れた日であった。
その当時玄黒が利用する都心に繫る最寄の駅前から
発着する私営バスは
朝夕を除くと昼間は1時間に2本しかなく
その日も駅の改札を出てバス乗り場の待合所に敷設する
時刻表標識柱を見るとほんの少し前に出発したばかりであった。
次のバスを待つより、特別急いで帰らねばならない用事も
ことさら無いので普段よりゆっくりしたペースで
模試の物理で解答出来なかった問題を参考書で見直しながら
帰ることに決めたのであった。
人通りのまばらな寂しい商店街を抜け
バス通りを外れ道が狭くなるまで
5分ほど歩くと住宅街に入るいつもの近道である。
ほぼどの家も瓦屋根葺きの家が続き
家を囲んだマサキなどの垣根は大概程よく剪定が施されていて
落ち着いた雰囲気のこの住宅街を抜けると芝畑にぶつかり
遠くまで開けて一気に空が高くなる。
当時この辺りでは芝を長方形に土ごとカットして切り売りしている
「芝栽培と販売」を生業にしている農家が何軒もあったのである。
その芝畑を両側に見て道に沿って左に折れると大きな木が鬱蒼と茂った
農家がある。この農家は、モクレンやハナミズキなどの落葉樹や
松やつげ、モチの樹などの高木の常緑樹や
ツツジやアジサイなどに至る低木迄
様々な苗木を栽培管理販売している大きな農家である。
最も当時は大きな農家ということだけでどんな商売をしているかは
知らない儘 いつも通り過ぎていたが
ある時大きなクレーン付きのトラックがその農家の正門前に
横付けされていて「麻布と麻縄」でがっしり根巻きされた
たくさんの苗木が次々とトラックに積み込まれているのを見て
ああここは苗木の商いをしている農家なのだと了解した。
その農家は住宅街の家と異なり「マキの生垣」で広く囲まれていて
その高さは優に3mもあろうかと思われるほどの高さであった。
流石に専門技術者が揃っているのであろう!
きっちりと直方体に刈り込まれていて「堅固の仕立て」で隙が無い。
その生垣に沿って道路を進むと母屋に導く様に広い入り口が
八の字型で開かれて母屋の玄関口まで道が続いている。
門扉は無い。公道と私道がそこで分かれるのだ。
この入り口近くのマキの生垣の向こう側におそらく10数mには
なろうかというとてつもなく背の高いケヤキの樹が植栽されている。
幹の太さは18歳の玄黒が両手で抱き抱えても抱えきれないくらい太い。
玄黒は、模試で出来なかった物理問題の解答を探して参考書を
漁っていたが解決出来ない儘その農家の生垣の前に差しかかかった。
まだ午後の日差しは強く、ゆっくりではあるがすでに15分ほども
歩いて来たので白いワイシャツの首の周りや額はひどく汗ばみ
ハンカチを取り出して拭き始めたところ、
あの「ミーン!ミン!ミン!ミュー!」「ミーン!ミン!ミン!ミュー!」の
ミンミンぜみの鳴き声が聞こえて来たのである。
鳴き声の主の存在はあのケヤキの細い褐色の無数の枝先が伸びる少し下の
太い幹にしっかり張り付いて鳴いている。その高さは玄黒の立つ
アスファルトの道からは6~7mはあろうかと思われた。
ケヤキの細い枝咲に互生して付く卵形の鋸歯の葉が無数に繁り
終わりかけの夏の午後のまだ強い陽射しを遮り
木の下のアスファルトの道一面に大きな日陰を作ってくれて気持ち良い。
玄黒はフーと息を吐いてひと呼吸入れてミンミンぜみを注視する。
すると蝉が玄黒の気配に気がついて鳴き声を急に止めた。
後編
玄黒は、ミンミンぜみの鳴き声を聞きつつ、ケヤキが作ってくれた木陰で
マキの生垣とは道を隔てて反対側にある丁度10cmほどの太さで
都合の良い高さの排水溝を仕切る路傍の杭にもたれ掛けて
休みながらゆるりと参考書を
紐解いて解けなかった難問の物理問題の
解答を見つけようと思っていたところであった。
ところが背後で奏でてくれるはずのミンミンぜみの
1/fゆらぎの心地よい鳴き声が聞けないのが玄黒には少し物足りなく思えた。
下を見ると道に轢かれたアスファルトが排水溝の側でところどころ削られて
土が露出している場所にオオバコなどの雑草が生えていて
砂利などに混じって5−6cm程の硬そうな石が転がっている。
それを手に取った玄黒は、ミニミンぜみに向かって急かす様に投げつけた。
すると偶然にも見事に的中してしまったのだ、、、、
ミンミンぜみはたちまち落下してアスファルトの上に落ちた。
透き通る羽根をバタバタと震わして仰向けになって
6本の足もしきりにばたつかせて上下に飛び跳ねている。
ああ!なんということをしてしまったのだろう!
ミンミンぜみは、
今まさに予期せぬ無頼漢による飛び道具の襲撃を受けて
ただでさえ10日もすれば命が尽きるこの短い地上生活を
さらに縮めて突如命の終焉を迎えようとしているのだ。
あのケヤキの下の土の中で7年を越える長い年月幼虫時代を過ごし
つい今朝からケヤキの幹にしがみついて成虫になったばかりなのだ!
自身の子孫を残すためにオスのみに許された美声の鳴き声が
遠くまで届き易いこのひときわ背の高いケヤキの幹は
白い毛で覆われて登るには都合よく
だからこそ時間をかけてこの高さまで這い上がって来たのだ。
それもこれも良きメスの伴侶に見初めてもらい交尾の儀式を
恙なく数多く短期間で済まさねばならぬからなのだ。
種の絶滅を避けるためにオスたるもの絶対使命なのだ。、、、
玄黒は、ここまで考えが及ぶとほんの悪戯のつもりで投げた石は、
子供の頃に「長い竹竿と針金と晒し木綿の布袋」を利用して
手作りした虫取り網でセミを捕獲しようとしても
蝉からせいぜい小便をかけられて逃げられるのが
オチであった経験からして
まさか本当に的中するとは思っていなかっただけに
後悔の念がまず際立って湧いて来たのだ。
自分の手でたとえ昆虫とはいえ徒らに命を奪って彼らの限りある
種の存続の権利を無碍に奪って良い訳が無いのだ。
ミンミンぜみには何等の罪も無い。
もしこれが相手が人であったとしたら、どんなに
「殺す意図はなかった」と弁明しても
自分は殺人者として
当然罰を受けなければならないのだ、、、
自分のこうした軽はずみな行動が
いつかとんでも無い事件を惹き起こしたり
巻き込まれたりする事になるかも知れないと想うと
常々ただでさえ気弱な性格の玄黒の心に
重圧が襲いかかり
自分の前途が暗澹たるものに思えて来て
臆病心はますます募り自分に嫌気が差してくるのだった。
ミンミンぜみ達はケヤキという絶大な安心出来る環境に頼りながらも
全面的にもたれかかることもなく、自らの限られた地上生活で
種の維持継承のために精一杯命を削って使い切るのだ。
然るに自分はどうだ?
子供の頃から余程の危険な事がない限り
両親からなんだかんだうるさい注文や文句も言われることもなく
両親の庇護の下に苦も無くぬくぬくと育てられた為か
特別に将来の目標を立てることも
人生でのやりがいに自ら目覚めることも無く
のうのうと受験勉強で成績を
あげることだけに時間を割いている。、、、
玄黒はもう解けなかった物理の問題なんぞは、どうでも良くなった!
先程までしきりにばたついていたミニミンぜみの足の動きは止まり
6本の足は閉じた儘になった。、、、、
玄黒は、死骸を両手で持ち上げてケヤキの株元の根が大きく盛り上がって
マキの生垣を割って道路側まではみ出している場所の付近で
かばんの中に入れてあったボールペンを取り出して
土を掘り起こして作った穴に
そおーとミンミンぜみを葬った。
2024年9月23日 ようやく秋めいてきた秋の彼岸
