縁(えにし)・6〜9編

 

その6;集中治療室(全13編)

電話の内容は概ねこうだった。
中川が働く店の得意先の会社から
仕出しの注文弁当を受けて自転車で届けた帰り
白山神社の境内のそばを通ると
大声で子供達が怒鳴りあっている声がするので
自転車を脇に止めて境内に入ると
一人の中学生くらいの子供が2−3人のもう少し大きい
高校生くらいの子供達に殴られたり
棒などで小突かれたりしている。
多勢に無勢の中懸命に抵抗しようとする中学生の様子を見た
中川は持ち前の義侠心が湧きすぐ仲裁に入ったのだ。
ちょとやそこらの男達には引けを取らない中川の
腕っぷしの強さでいっときは少年達も怯んだものの
怒りで興奮して暴力を振るっていた少年の一人が
金属バッドで中川の頭めがけて強烈に撃ち下ろした。
さすがの中川も地面に頭を抱えて倒れ込んで
血だらけになって動けなくなった。
その様子を見た子供達は怖くなって逃げ出したそうである。
一部始終を見ていた近所の人が警察に連絡し
救急車で中川は最寄りの病院に運ばれ
現在集中治療室で治療を受けているというのである。

徳岡がいち早くこの病院に駆けつけ
玄黒の家に中川の妻・千代に代わり
電話して来ることが出来たのは、
中川の住む家が文京区の駕籠町にあり
徳岡のマンションが近いところから
中川の妻・千代と徳岡の妻・紬子は
互いに夫を通じて知り合って以降
頻繁に連絡を取りながら行き来していたので
最初に千代から紬子に連絡が入った為であった。

玄黒夫妻がその病院に駆けつけると
集中治療室の横の部屋で長椅子に腰掛けた
徳岡夫妻がいて
中川は未だ意識が戻らない状態だという。
しばらく徳岡が中川千代から聞いたという話を
詳しく聞いていると治療室の扉が開いて
中から看護師が出て来て医師から許可が降り
少人数で短時間の面会ならばということで
二人づつ交代で入ることにした。
まず玄黒と徳田二人が
キャップを被りガウンとマスク姿に着替え
サンダルに履き替えて入室した。

中川はベッドで目を瞑ったまま
頭は包帯でしっかり巻かれ口には酸素マスクが当てられ
たくさんのチューブが身体中に繋がれて
点滴台や心電図モニター他多数の計器類に囲まれて
それらが色々なアラーム音を鳴らす中で
腹のあたりが僅かに上下する姿で静かに横たわっていた。
千代がベッドの横の小さな丸椅子に腰掛けて
中川の手をさすりながら目に涙をいっぱい溜めて
二人に軽く会釈した。、、、
中川は、二人の声かけにはピクリとも反応しなかった。
、、、、、、、

その7;サザンカ(花言葉は困難に打ち勝つ)(全13編)

中川は事件から2ヶ月をとっくに過ぎても意識を
取り戻さない儘、入院生活を続けていた。
あれほどの猛暑が続いたその年も
11月に入ると急激に寒気団が南下して
東京も寒さが一段と厳しくなり
玄黒の家の北側道路に面するカナメ垣の側にある
古い大きなサザンカの樹が紅色の花を
いっぱいつける季節を迎えていた。
道側にこぼれ落ちた花びらは
まるで花柄模様の絨毯を敷いたようで
道に沿って植えられているカナメ垣の
下辺りでは年々増え続けてきたホトトギス達が
道路側に向かって勢いよく伸びて
これもまた沢山の花を咲き誇っていた。
初冬のよく晴れた土曜日の寒い朝のことであった。
中川千代から電話が入り
早朝に中川が息を引き取ったことが伝えられた。
、、、、、、、、、、、

後日中川の通夜と葬儀は駕籠町の近くのお寺で行われた。
このお寺には白花のサザンカの木が何本も植えられていて
参道の石畳の上にも花びらがたくさん散っていて
昨夜から今朝まで降り続いた雨に打たれ濡れ萎んでいた。

中川は亡き母親に女手一つで育てられ、
兄弟姉妹のいない一人っ子であったが
夫人の千代も親族は少ないようで
子供の頃からの親友他十名程が駆けつけた。
他には中川が手伝っていた先輩の店の主人夫妻や
中川が長く勤めていた大店の中川を慕う板前達
そしてあのイタリア料理店で働いている友人と
玄黒達が知らない数名の友人や
将来中川が店を開いたらぜひ応援したいと言っていた
ご贔屓先の客などを含め徳田夫妻と玄黒夫妻等
生前中川が特に親しく付き合って
来たもの達だけが参列し
中川の冥福を心から祈る心温まる葬儀であった。
中川千代はただでさえ痩せた細い体付きで
笑うと鼻と眼元の間に皺が出来る目のくりくりした
愛嬌のある憎めない可愛い顔つきであったが
中川の子供を宿し大きく膨らみ始めたお腹を手で支えるようにして
参列者達に丁寧にお辞儀を繰り返しているが
この2ヶ月を過ぎる心労が重なりさらに疲れ切って弱々しく見えて
玄黒は無事に出産が出来るのだろうかという心配だけでなく
さらにこの先の不透明で過酷な彼女の人生を想像して
思わず不憫な感情が湧き昇って痛たまれなくなっていた。
ただお経の合間に坊さんの打ち鳴らす「妙鉢」の金属製の
「ジャーン!」という高く響く音が鳴る度に
中川の魂を安らかに見送る為というよりもその音に併せ
「必ず無事に生まれて来いよ!、、
そしてこれからは千代と共に
健やかに過ごし元気な子に育っておくれ!!、、、」と
何か中川が夫人とお腹の子供に最後のエールを
送っているような感じにも思えたのであった。、、、

その8;柿(全13編)

中川光男が亡くなってから
玄黒夫妻と徳田夫妻は
外で会食をするよりも
玄黒の家で季節毎に花をつける
庭の植物を楽しみながら
会食するということが多くなった。
中川夫妻とは中川の生存中から
中川の妻・千代が幼い頃から病弱な身体で
それは先天的な心臓の欠陥がもたらすもので
時々不調をきたしていたので
三組の夫婦が一緒に揃って会食する機会は極めて少なく
大抵は中川一人の参加であった。
従って中川は自分の店を出せば妻の助けが必要になるだけに
弱い身体の妻のことを思うと資金面だけでない悩みがあったのだ。
それだけに子供が出来たことを本当に喜ぶと同時に
体の弱い千代の負担を考えると心配でもあり
子供が無事に産まれたら子供を無理なく
妻が育てられる環境が整えられるような
店づくりを考えていたのだ。

玄黒はこれまで
自分達三組の夫婦が喧嘩もせず仲良く
頻繁に交流してきた経緯を振り返り
徳岡と再会した時のことを改めて思い起こしていた。
徳岡が一目惚れしたという紬子を徳岡から
初めて紹介されたのは
日本に戻った徳岡に会って
いろいろ事情を聞いた日から
ひと月ほど過ぎた秋の終わり頃であった。

玄黒の家の庭には亡き両親が 植栽した
極美味の甘柿が採れる大きな柿の木があり
毎年この柿を食べるのを楽しみに待つ眷族や知人がいて
彼らから受けた一年間の恩義を
両親が亡くなった後の今でもこの柿を贈答することで
少しだけ毎年義理返しをしているのだった。

完熟柿が収穫出来るこの季節には、
「柿を使ったさまざまな料理」の他「柿ジャム」や
「柿のドライフルーツ」「柿アイスクリーム」などなど
色々工夫しながら長期間にわたり食べ続けるが
なんと言っても
生柿をそのまま食べるのが最高に美味いので
その日も妻・田鶴と共に昼食後のデザートとして
柿を剥いてコーヒーを飲んでいた。
イタリアから帰ってきた徳岡の事などを
丁度話していた日曜日の午後
玄関のベルが鳴る音に出てみると
噂の主徳岡が妻・紬子を伴い立っていた。
突然尋ねて来たのであった。
徳岡紬子は小柄な身長であったが
痩せても太ってもいない均整の取れた身体つきで
黒み帯びた髪はややショートカットにしていて
分けた長めの前髪が眉毛までかかり
両サイドの髪を耳に掛けた様は女性らしさが強調されて
くりくりした大きな目が印象的で鼻筋が通った
誰が見ても可愛いと思う色白の血色の良い女性であった。
なるほど徳岡が一目見て惚れたというのも
うなづける顔立ちの女性であった。

その日は、2時間ほど柿を食べたり
徳岡夫妻が手土産に持参した銀座ウエストの
ドライケーキをつまみながら
彼女が紅茶が大好きというので玄黒の従姉妹から送られてきた
自然農法で作られた雑味のない国産の紅茶を淹れると
たいそう喜んでその産地や入手方法などを詳しく尋ねてくるほど
気に入ってくれたようで話が弾んだ。
徳岡夫妻が過ごしたイタリア生活などの体験話を色々語った
徳岡は過去に見たことがないほど
快活に喋って帰って行ったのである。
彼女の言葉の端端で徳岡を立てる物言いが控えめであるが
賢さを感じる所作でもあった。
田鶴も同じような印象を持った様であった。、、、

その9;バブルの崩壊(全13編)

中川の死後 程なくして妻の千代は
文京区の駕籠町の家を売却し
自分の父親の実家があるという
栃木県の真岡という町に両親と共に転居して
女の子を無事出産したのだった。
従って離れた場所に暮らす中川千代との交流は
盆暮に互いに物のやり取りをした際に
電話で元気でいることを確認する他
たまに葉書で近況を報告しあうという
程度に減ってしまっていた。
玄黒夫妻と徳岡夫妻の交流は
年に少なくとも4−5回は会食を共にしたり
互いに好きな音楽会や展覧会を鑑賞するなどを通じて
親交を深めていく平穏な月日がその後も続いたが
いつの間にか時は流れ
玄黒夫妻も徳岡夫妻も気がつけば互いに体調の変化を
気にせずにはおられない歳になっていた。
世の中は「バブル景気」と言われた
「地価と株価の高騰の時代」も終焉を迎え始めていた。
日銀による金融政策の転換と
政府の行なった地価高騰を抑える総量規制により
銀行からの不動産融資に制限がかかり地価も急速に下がり
一挙にバブル崩壊が進み
経済の低迷期の時代についに突入したのであった。
いっとき「イタ飯」などともてはやされた
「イタリア料理ブーム」も
日本経済の低迷に伴い次第に下火になって来ていた。
当然徳岡の経営するイタリアの食材を扱う会社も
この大波に逆らうわけにはゆかず、営業成績も急落の
一途を辿り始めたのである。

徳岡の妻・紬子は徳岡と共に日本に戻ってから
徳岡と父親が互いに今に至るまで半目し合って
修復改善が出来ていないことを非常に口惜しく
心配し続けていたのだった。
そこで徳岡の母親と密かに連絡をとりながら
なんとか少しでもその仲を取り持ちたいと
常々考えていたのだ。彼女の性格の良さと賢い考えを
十分理解していた徳岡の母親は
徳岡の父親にことある度に
長男夫婦と出来れば一緒に暮らせるように
説得を続けていたのだった。
ところがある年の2月、雪が舞う寒い日に突然母親が
心筋梗塞の発作を起こし70歳を前にして
急死してしまったのだ。
徳岡は、母親の死にはひどいショックを受けて
考え込む日々が続き紬子もそのただならない
落ち込む様子を見て徳岡の精神に
支障をきたさないことだけを願ったのだった。、、

徳岡には、
医大を卒業して内科医になっている弟がいた。
学生時代に知り合った
産婦人科医の女性と結婚し
彼女の実家である熊本市内の
かなり大きな総合病院で働いていた。
徳岡の父親はこの次男が、いつの日か
自分の医院を継いででくれるものと考えていて
元々自分の生まれ故郷が熊本で
地元にまだ親族や友人がいることなどもあって
度々往来を重ねていた。
この父親はいわゆる「肥後モッコス」気質そのもので
子供の頃より男尊女卑の風土の中で育っただけに
頑固者だけにとどまらず家庭内のことは女がするものと
決めつける人間であった。
従って徳岡の母親が亡くなると
自分が老齢になって来たことにも依るが
これまでは徳岡の母親がいたからこそ
医院経営もわずかな日勤の看護師を雇うだけで
なんとか支障なくやってこれたが
一人になると日常生活もままならずとうとう
医院を閉鎖して弟の暮らす熊本で同居生活をすることを
弟夫婦と相談して決めて移っってしまったのだった。

徳岡の弟も自分が育った思い出多い東京の家を
このまま他人に譲るには惜しいという気持ちも強く
父親と兄がいつになっても
意見が平行線のまま進展が無いとは言え
子供の頃より色々と自分の勉強の面倒を見てくれた
尊敬する兄が家を継いでくれるのが一番であると思っていて
「将来自分が継げる日が来るまでなんとしてでも
家を守って欲しい!」と言う口実で徳岡を説得した。
徳岡は弟が妻の実家が経営する熊本の病院を将来
継承することになっていることを既に分かっていたが
弟の必死な説得の奥にある心遣いを受け入れて
徳岡夫妻は文京区のマンションから引っ越し
玄黒夫妻の住む私鉄沿線にある
あのN駅近くの実家の医院についに戻ったのであった。

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